犬の死とフィルム

今日気づいたけれど,寝室に差し込む日差しが強烈で,遮光カーテンの隙間から漏れてくる光で部屋がめちゃくちゃ明るいので,理由もないのに7時に目が覚めていた.日曜日だったので二度寝して9時過ぎに起きて瞑想をしたわけだけれど,しかし大きなあくびはでているわけで寝不足なのかよくわからない.元々ロングスリーパーではないので,あくびをずっとしている状態だと調子が悪いわけではないのだけれど,気分としては眠くないのに体が眠いと言っているのは少し気持ち悪い状態ではある.

今日は高速バスで実家に帰って,恋人と一緒に夕食を共にする予定.昨日Lineで母親と連絡を取って,夕食は気楽な場所がいいのでいつも行っているとんかつ屋に行こうという話をしていた.そのLineの最後に唐突に,実家で飼っていた犬が2月に亡くなっていたことを知らされる.博士論文の執筆で忙しかっただろうと配慮して今になったらしいのだが,本人たちがショックを受けていて連絡が遅くなったのだろうとは思う.夫婦揃っての朝と夜の散歩をする理由を失って,家庭内のリズムを崩しているのではないかと心配する気持ちもある.

犬が亡くなったと聞いた時に,なぜだかよくわからないが,フィルムが残っているということで少しの安堵感を感じていた.犬が死んだ場面にも立ち会わず,死ぬ情景の写真を見ることもなく,文字情報として死を知った時の空虚さを補填するように,フィルムの質感がバランスをとってくれる.実家に帰省するたびに,フィルムカメラを持ち帰って撮影しておいたことに感謝しながら,この写真をプリントして両親に送らないといけないという気持ちが湧いてきたようだ.

アウラのような話だとは思うが,デジタルカメラで写真を撮っていたとしても,そのデータに対して愛着が湧くことはほとんどないわけだけれど,フィルムで撮影した写真に対しては何かを感じているらしい.そもそもベンヤミンが複製技術の対象として論じていたフィルムの写真が,何かを内包しているということは面白いことではある.今では「写真を撮られると魂が抜かれる」という人も少なくなったが,デジタル化で写真の重みが減ったことと関係は少なくないのだろうと思ったりもする.

写真をプリントしたりまとめるということは,亡くなったものを残したいという気持ちの捌け口としてちょうどいいようだ.身近な人が亡くなった時の写真を,写真展や本として出版することで公開していくことはよくあることだが,亡くなったものを残したいという気持ちが最後に行き着くところが,現代では商業出版を通して種を蒔くことであるということは理解できる.

朝の微睡の中でふと思いついたことだけれど,フィルムを現像してプリントするという過程は,子供を作りたい・持ちたいという欲望と似ているような気がした.DNAというマスターデータのコピーから始まり,エピジェネティクス文化資本などの影響を受けて,どのような形質を持つのかが決定される.サイコロを振るかのようにそのアウトプットを見たい気持ちに加えて,子供たちの世話をする過程に途方もない量の労力を割いて経験することに対して欲望を感じているような気がしている.そして,出力されたアウトプットは一人で歩き始めて,さらに別の複製を作り始める.重要なのは,アウトプットがどのようにできるかという結果ではなく,自分自身がアウトプットの形成に関与する過程であり,その影響を通して自分自身が残り続けるということなのではないかと思ったりもする.